芦屋市立美術博物館 10月7日-11月26日
私が切手のコレクターだった小学生の頃、この「蒲原」は切手の絵になっていた。当時から不思議だったのは、今の静岡市の海寄り地で、こんなに積雪していたのか、不思議だ。
少し調べてみた。
蒲原宿は、現在の静岡県静岡市清水区で、東海道五十三次の15番目の宿場です。
静かなしんしんと雪の降る夜・・・
背中をかがめながら、笠をかけた人々が往来する。。。
背中をかがめながら、笠をかけた人々が往来する。。。
そんな光景を描いたのが、この浮世絵です。
いやぁ、、、なんとも味がありますな^^
・・・
・・・
しかし、この浮世絵、、、、一つだけ不可解な事があるのです。
実は、この蒲原宿の絵が描かれた、天保3年(1832年)以前に、
この地方で、この絵のような豪雪は、降った事が無いのです。。。
この地方で、この絵のような豪雪は、降った事が無いのです。。。
いったい、どうして安藤広重は、蒲原をこんな雪のふる絵にしたのでしょうか?
東海道五十三次の絵は全部で55枚ある
この疑問を解く上で、まずは、ここで安藤広重の作品をよく調べる必要があります。
下記で、安藤広重の作品の一覧が見れますが・・・
実は、東海道五十三次は、東京日本橋~京都までの五十三の宿を描いたものですが、
始まり(日本橋)と終わり(京都)の絵もあります。
始まり(日本橋)と終わり(京都)の絵もあります。
要するに、全シリーズが、53枚+2枚=55枚で、成り立っているです。
ここでは、この東海道五十三次の絵は、全部で55枚あったというのを、覚えておいて下さい。
後々、この55が大きい意味をもちます。
安藤広重という人物について
次に、安藤広重の素性を調べてみます。
安藤広重は、寛政9年(1797年)江戸の定火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、
その後、15歳の時に浮世絵師となります。
その後、15歳の時に浮世絵師となります。
当初は、初代歌川豊国の門に入ろうとしたが、門生満員でことわられたため、
代わりに、歌川豊広に入門し、翌文化9年(1812年)に師と自分から一文字づつとって
歌川廣重の名を与えられることになります。
代わりに、歌川豊広に入門し、翌文化9年(1812年)に師と自分から一文字づつとって
歌川廣重の名を与えられることになります。
そんな彼は、家業の火消同心を辞め、絵師を専門の職業にして、
門下生を集めるくらいにまで、名声を集めることになります。
門下生を集めるくらいにまで、名声を集めることになります。
しかしながら・・・
天保3年(1832年)、安藤広重は、突如、一立齋(いちりゅうさい)と号を改めます。
天保3年(1832年)、安藤広重は、突如、一立齋(いちりゅうさい)と号を改めます。
つまり、図のように、突如、頭を剃髪して、出家したってことです。
・・・いったい、彼に、何があったのでしょうか。
管理人が推測するに、安藤広重の一つの契機として、
師匠であった"歌川 豊広"が1830年1月15日に亡くなっています。
師匠であった"歌川 豊広"が1830年1月15日に亡くなっています。
もしかすると、それが、一つ出家の理由にあるのかもしれません。
(ただ、広重の出家までに、少しタイムラグがあるので、微妙ですが)
(ただ、広重の出家までに、少しタイムラグがあるので、微妙ですが)
また、もう一つ考えられるのが、もう一人の師匠の存在です。
師匠であった歌川豊広が亡くなった後、安藤広重は、
浮世絵とはまた違った文人画家の"大岡雲峰"を二人目の師とします。
浮世絵とはまた違った文人画家の"大岡雲峰"を二人目の師とします。
この大岡雲峰は、当時、かの谷文晁と並ぶほどの評価を得ていたそうですが、
その一方で、特殊な信仰・思想を持っていたそうです。
その一方で、特殊な信仰・思想を持っていたそうです。
それが、"道教"の神仙思想です。
大岡雲峰は、不老不死や風水、陰陽道、呪術の知識も持っていたそうで、
「道教学者」としても知られていたそうです。
「道教学者」としても知られていたそうです。
そんな道教思想が、弟子の安藤広重にも伝わり、
感化されて、安藤広重は、出家したのではないか?とも考えられるわけです。
感化されて、安藤広重は、出家したのではないか?とも考えられるわけです。
ちなみに、ちょうど彼が出家した1832年において・・・
彼は、公用で東海道を上り、その翌年から、
「東海道五十三次」を発表することになるのです。。。
「東海道五十三次」を発表することになるのです。。。
要するに、師匠から弟子に、道教思想が伝えられ、
その思想の影響もあり、東海道五十三次は描かれた・・・とも考えられるのかもしれません。
その思想の影響もあり、東海道五十三次は描かれた・・・とも考えられるのかもしれません。