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Channel: 神戸・元町からの気まぐれ日記
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友人への手紙

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神戸への転居は「大英断だ」と評価をいただきましたが、もともと私自身がそこそこの大都市へ転居するのが目的ではなく、認知症の進行する母を「特別養護老人ホーム」へ入所させるための「苦肉の策」の結果であり、追い込まれたというか、切羽詰まった末の転居というのが、本当のところです。入居時に数千万円も要し、月々の支払いが20万円ぐらいする有料老人ホームなら、お金があればいつでも・どこでも入れたのですが、先立つものがないだけに、「介護を必要とする人を世話する家族がいない」という状態をムリヤリにでも作り出し、数百人ともいわれた入所待機の方々での優先順を大幅に繰り上げて、安価な「特別養護老人ホーム」へ入所させる。そのためにはこの選択肢しか頭に浮かばなかったのです。
 
このギャンブルのような作戦もいきなり思いついたのではなく、10ヶ所近い施設へ入所申込をする際の「ヒヤリングや面接時のやりとり」…これだけで半日かかります…から得られる雰囲気・感触、あるいは地域包括センターの相談員さんとの度重なる話し合いなどにより、「施設側からは口に出せないけど、突破口はこれしかない」と考えるようになりました。なんの保障もなく、また勝算もまったく不明でしたから、ギャンブルとしか言いようがありません。こんなことを考える人は極めて少ないはずだし、いろんな制約などで実行できない人も多いだろう、との読みはありました。
 
自宅が売却できるかもギャンブルでした。当時、不動産の仲介を扱う業者は「○○工務店」しかありません。業者も買い手の目処がたたない限り、買おうとしません。「塩漬け」がこわいからで、このあたりが都心の一等地とは大違いです。△■君のように、お隣りさんが購入を希望するなんて、あの街では稀なことでしょう。私は待つこと三か月ほどで売却がなんとかまとまりました。ラッキーだったのでしょうかね。
 
このあと1年もしないうちに東日本大震災・福島原発の大事故が起こります。敦賀・若狭湾原発地帯に近いので、全体として不動産価値はかなり下落させてしまったと私は考えています。あの飯舘村と変わらないロケーションなのに、幼い子どもを育てる地域として望むはずがないでしょう。○○工務店はほどなく撤退しました。このように記すと、ほんとに「綱渡り」の連続だったようですね。
 
 
 さて、私は通勤範囲内とも受け取られかねない□○市らを避けて、神戸に決めました。神戸のマンションは、半年ほどかけていろいろとリサーチし、地価公示や路線価の変遷等、またJR駅から徒歩5分以内で、南海トラフ地震の津波被害が想定されていないところ、などを考慮して決めました。当然と言えば当然ですが、県警本部があぶなっかしいところに建つはずもなく、六甲山の固い岩盤のうえで、阪神大震災のときも、付近では古い木造家屋を除いて倒壊した建物はありません。県警本部の近隣に風俗店も営業できないでしょう。そこが、三宮と元町の大きな違いです。偶然も重なったのでしょうが、ここは私にとって文句のない物件で、屋内は引き戸のバリアフリーだし「管理料+修繕積立金」の合計も月に1万円ぐらい。だから、購入時は2050万円だったのに、いま2400万円前後で売れるようです。すぐ北側のタワーマンションは昨年の北大阪地震でほぼ一日エレベーターが停まりました。40階まで階段を昇降することを考えてください。
 
徒歩1分で地下鉄「県庁前」、そこから1分で三宮、3分で新神戸駅、神戸空港まで20分ぐらい、関空までノンストップバス1時間。でもなにより魅力なのは、JR新快速で大阪まで20分という利便性でしょうね。ほとんどの都市機能が徒歩圏内にあるのも、東西に細長い神戸市ならでは、それが中央区の特徴です。 
 
さて、私はかつての地元自治会の役員を40歳を挟んで異例の3年連続もやりましたが、その経験を少しお話しします。もともと私たちの住んでいたところは、県蚕業試験所の桑畑らがあったところで、40年ほど前に市の土地開発公社が分譲した宅地です。住民はみんな比較的若いし寄り合い所帯なので当初は元気もありましたが、だんだんと高齢化していくばかり。

かたや、従前からの旧町は、市街化区域にありながらも実態は農村集落なのです。ですから、田畑を所有しない者は「よそ者」扱い。自治会の総会の前に、神社の氏子総代会があって、江戸時代から伝わる水争いを治めた御触書のような類が朗々と唱われ、みなが唱和します。信じられますか。
自治会という組織は、この総代会の下部構造のような存在なので、農村集落の伝統を引き継ぐ世帯が100戸あまりなのに、アパートを含めた総世帯数が400戸を超えてしまい、従前のしきたりや申し伝えではもう動けなくなりつつありました。途中は省略しますが、「たのむ、なんとかしてくれ」とのご指示が、氏子総代さんや自治会長から託され、断れずに引き受けました。

①自治会規約の成文化をまずやりました。訳のわからない申し合わせの積み重ねでは、新参者は理解できないし、規約を改正する手続きすら明文化されていなかったからです。②自治会役員の選出方法を各組単位からの推薦方式へと改めました。従前は自治会総会で自治会長に選ばれた人が、役員になってくれそうな方々へ頼み込み、各自の承諾を得るという方式でした。総理が各大臣を任命するどころか、お願いするようなかたちだったのです。③これは「さざなみ通信」にも書きましたが、納税組合を解散したことです。これで2名の役員を省くことができました。この過程で、当然ですけど変えること自体に意味もなく反発や衝突に近いこともありましたが、異論や反対意見は文書で示すように突っぱねると、そんな輩はいないわけで、押し通しました。そのせいか、私は町のご長老方からも一目を置かれる存在となったようです。
また、従前からこの神社公会堂(社務所)が公職選挙の投票所となっていたのを変更させるのにも多少尽力しました。そもそも宗教法人の施設が投票場となること自体、仮にそこが創価学会の会館なら「おかしい」となるはずなのに、市の選管は愚鈍極まる輩の集まり。車いすでは入れないし、トイレも和式しかありません。第一、クルマで来場する有権者も多いのに、駐車施設もないのですから狭い道路は大混乱も起こしていました。側溝に脱輪したしたクルマがあり、警察も来ました。ポリ公が「選挙事務従事者」へ「だれか交通整理に出てこい!」とどなりもしました。蚕業試験所跡地には、広くて立派な「市民交流センター」がとっくに建っているのに、です。ここへの場所変更には、選管事務局へ幾度も情況説明書を出し続けてやっと実現しました。農村集落的なところでは、投票日前日の午後8時まで、地域代表の候補の選挙事務所が置かれていた自治会集会所が、翌日7時には投票所となることも珍しくないわけで、呆れてしまいましたが、地域の方々には当たり前のことなのでしょう。
 
ここまでは前段です。坂本龍馬の「家は人を縛り…」という名言ですが、龍馬は下級であっても武士でした。農地から年貢を得ていたとしても、農地に縛られることはなかったでしょう。明治維新の激動期を動かしたのは、下級の武士階層が中心です。ところが、圧倒的多数であった農民階層は、大地主であっても小作であっても農地と家を切り離すことができなかったわけで、「農地が家をしばっている」人たちに「家は人を縛る」と唱えても意味不明ではなかったのか。島崎藤村の「家」を想いだしながら、そう考えてみました。
 
自分から言うとなんですが、タウン誌等への定期的な投稿や「おちゃらけ」の散文から、国による部落差別を批判した論文を発表したり、あるいはテニスの動作解析の私論、さらには訴訟の答弁書まで自分でこなす私は多少とも特別なのかな、とも考えています。似たような人を見たことがありませんね。大多数の人は「おかしいことをおかしいと訴える」より、周囲の皆と同調し、とにかく波風をたてないほうを選択するものです。
 
 
 

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