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Channel: 神戸・元町からの気まぐれ日記
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土からわかるトイレと水 ~ 環境考古学の世界 ~

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松井 章  
(独)奈良文化財研究所埋蔵文化センター環境考古学研究室長、京都大学大学院人間・環境学研究科助教授
 
主な著書に『環境考古学への招待』(岩波書店、2005)他多数。

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 水は、蒸発すれば空気中に戻り、地中にしみこめば地下水として循環し、常に動いています。ですから「奈良時代の水」など、残っているはずがないと頭から決め込んでいる人も多いでしょう。
 ところが、いろいろな遺跡の「土」を分析することで、人がどのように水を利用していたか、どのような環境で暮らしていたか、ある程度推測できるようになっています。今回は、環境考古学のパイオニアである松井章さんに、トイレをめぐる土と水の奥深い話をうかがいました。
 
失敗しながら学んだ都のつくりかた
 トイレの話と、昔の都市における排水がどのようになっていたのかという話は切り離せません。古代の都を排水路との関係で見ると、なぜ次々と都が移ったのかが分かります。
 例えば平城京を見ますと、秋篠川と佐保川が平城京の中に北から入り、南にかけて流れ出ていました。その南端には、死んだ牛馬の処理場があったことがわかっています。つまり、一番北のきれいな水を、平城宮に居る天皇、およびそれをとりまく貴族達が利用したわけです。
 当時のトイレは、垂れ流し式の水洗トイレです。このため、その汚濁は、徐々に南下します。そして、水が一番汚い場所に、死んだ牛馬の処理場があったわけです。
 では、平城京より一つ前の都だった藤原京では、どうだったのか。
 藤原京への水の供給路は、飛鳥川一本だけです。それも、南東から北西に向かって流れています。つまり、一番南の方の人達がきれいな水を使い、北西の方に向かって汚濁が進むという地形になっている。その中間に藤原宮があるのですが、「北に宮を陣取って南に向かって政治をする」という中国の都城思想に基づいて藤原京をデザインしたのです。このため、実際に住んでみると、排水システムに欠陥があったことはすぐにわかったと思います。
 藤原京周辺で汲み取り式便所の跡が見つかっているのですが、これは排水が機能していなかった点を示唆するものだと思います。もしこれらの汲み取り式便所を、垂れ流しにしていたら、汚穢は宮の方に流れていったことでしょう。
 つまり、中国の都城思想に、排水の思想は文字としては伝わっていなかった。このため、それを真似た藤原京の人々は、住んでみて初めて排水の不便さがわかったのでしょう。最初は壮大な都城を計画したのに、完成させずに、16年で廃絶してしまった理由は、そこにあったのだと思います。
 では、都城ではありませんが、藤原京より古い飛鳥の周辺はどうだったのか。

 飛鳥は低湿地で、水の供給量が少なく、水がよどみます。悪水がたまりやすかったわけで、沼地として苑地が多数造られたと思うのです。ですから、飛鳥では、宮は造りましたが、都市は造らなかった。天皇の代が替わる度に、宮も替わる。それなら、排泄物や死んだ牛馬を「どこで大量に処理するか」という問題は起きなかったのでしょうね。
 ところが、都城を造るとなると、その中に多くの人が定住するわけで、どうしても排水が問題になる。このことを藤原京に住んでみて、はじめて分かったのだと思います。

平城京の水質汚濁
 ですから、藤原京を経て、平城京を造営した時は、秋篠川と佐保川という二本の清流を都の中に流れ込ませ、東と西に堀川と呼ぶ運河を造っています。これにより、排水を確保しようとしたのでしょう。
 平城宮の北部・平城宮近くにあった当時の貴族・長屋王邸宅跡を発掘しますと、道路側溝から水を取り入れて、汚穢を流し出すという垂れ流し式トイレがありました。おそらく水質汚濁はかなり深刻な問題だったと思います。このため、既に藤原京時代から、汲み取り式トイレが併行して使われています。
 しかし、秋篠川・佐保川という自然河川を都城の中に流しこんだので、雨が少し降れば溢れ、渇水の時には干上がり、そのコントロールは大変だったでしょう。
 さらに、やっかいな問題もありました。
 律令政府は、当初は都城の中で生産から居住を完結させようと思ったのでしょう。ですから、東大寺の建設等に伴い、鋳造が必要となるわけですが、その鉱毒の処理が問題になったのに違いない。大仏などの鋳造にはヒ素や水銀を大量に使いますので、工人やその周辺の住民らが鉱毒のために中毒になったのはまず間違いないでしょう。
 これが飲料水の汚染も招くわけです。しかも、東大寺の大仏鋳造などは、佐保川の上流で行いますから、鉱毒を含む汚水が、大量に都城の中を流れるのです。つまり、国家の権力で都城の中にむやみやたらにいろんな公害を持ち込まれ、深刻な汚染を招いたことは間違いないと思います。
 このような水の汚染は、土壌の堆積物を分析することでわかります。淡水と一口に言っても、泥水と、流れのある水とでは、そこに棲むケイソウという小さなプランクトンの種類が違ってきます。平城宮の土を調べると、よどんで濁った水に住む種類が多いのです。
 このように水質が悪化したからでしょうか。都も時間が経つにつれて荒れてきますね。奈良時代の最初の頃は大きな建物が建ち並んでいた。しかし、それらがだんだん分割され、構造物が小さくなっていく様子が、発掘された柱穴の大きさから見ても、わかります。それは南の方で特に顕著で、人々が広く薄く住むようになったということでしょう。
 こうしたことが、文献からではなく、発掘からわかるようになってきたわけです。
トイレの土からわかる平安貴族の健康への思い
 長岡京になると、南東の端に宇治川を流し、自然河川を都城の中には入れていない。おそらく水門を造り、必要な分だけ都城に流し込むようにしたのでしょう。ところが、長岡京は低湿地が多いし、中には丘陵地もある。ここも水のコントロールがうまくいかなかったことは明らかです。このため、ここもすぐに諦めて、平安京に移ったのではないでしょうか。
 
 
 


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